市川海老蔵さんが、宗像大社で演じた「蛇柳(じゃやなぎ)」は、世界遺産「沖ノ島」に捧げられた一夜限りの特別な公園になりました。
海老蔵さんが、次々と様々な表情を見せ、最後には市川家の迫力ある「荒事」で終演しました。
この奇跡的な舞台をレポートさせていただきます。
市川海老蔵さんの「蛇柳(じゃやなぎ)」への想い
勧進帳の舞の素踊りを終えた市川海老蔵さんが、宗像大社の舞台に再び現れました。
いよいよ歌舞伎十八番、「蛇柳(じゃやなぎ)」です。
「古典がまずは第一。若い世代の方々にも古典の深みを楽しんでいただくために昨今、大きなウェイトを占めていて、それをどう見せていくかということだと考えているんです。」と海老蔵さんは語られています。
上演が途絶えていた演目を海老蔵さんが、第一回市川海老蔵自主公演「ABKAI」で復活させ大きな話題となりました。
歌舞伎特有の「押戻」という手法を用い、海老蔵さんが三役を勤めます。
もっとも得意な芸や技のことを指す“十八番(おはこ)”。
この言葉の由来でもある「歌舞伎十八番」は、江戸中期に市川團十郎家が家の芸とする十八種を選定したものです。
3年前、海老蔵さんが、ご自身のブログにて、十二代目市川團十郎さんと海老蔵さんの復活上演について触れられていました。
歌舞伎十八番を復活させることがご自身の生きてきて目的の一つであること、それらの作品を磨いていく強い意志を語られていたことが思い出されます。
海老蔵さんが演じる哀愁と妖気
幕開きは九團次さんと廣松さんによる阿仏坊と陀仏坊が物語の背景を語ります。
海老蔵さんが演じる丹波の助太郎は、髪が少し乱れ、やつれた表情や、蝶々と無邪気に戯れる物狂いの姿は、寂しさの中に何とも言えない色気があります。
海老蔵さんが演じる丹波の助太郎は、あまりに美しく、妖艶です。
助太郎は愛する妻と別れ物狂いになったのでした。
髪が少し乱れ、やつれた表情や、蝶々と無邪気に戯れる物狂いの姿は、寂しさの中に何とも言えない色気があります。
そして哀愁の踊りから、次第に雌蛇を柳に変えられてしまったことを恨む雄蛇の姿を現していきます。
妻の忘れ形見の打掛を愛おしそうに抱く姿は、観客の心を打ちます。
柳を睨む目の鋭さ、雌蛇に対する情念、蛇柳の精魂を演じた海老蔵さんは、この世の存在とは思えない妖気と迫力がありました。
九團次さんと廣松さんの間狂言は、ユーモラスな巧みなお芝居にて少々おどろおどろし展開に、魂を持っていかれている観客の心を癒します。
これぞ、市川家の大迫力の「荒事(あらごと)」!
その後、いつの間にか退場していた海老蔵さんが、押戻になって再び登場です。金剛丸照忠は、太陽のようなおおらかな、パワー全開荒事の海老蔵さんの本分でしょう。
金剛丸の力によって蛇柳の精魂は鎮められ幕となりました。
短い舞踊劇ながら、哀愁の色男、そして妖気の迫力、最後にハレの荒事と、異なる魅力が存分に味わうことができ、物語の起伏も富み、体の動きと顔の表情で演じ分けた海老蔵さんに拍手喝采でした。
そして、その海老蔵さんの舞を、食い入るように見つめていた少年達がいました。
「祇園大山笠」の天籟寺大山笠の少年達です。
「天」の一字を背中に背負い、同様に日本の伝統をしょって立ち、一瞬でも見逃すことがないような真剣なその眼差しに、先人から引き続かれる伝統を守る意志とその誇りを見ました。
海老蔵さんは、現存している資料をもとに、「手を入れる」ことにより、伝統歌舞伎を守り続けています。
一方で、「手を入れない」ことで、ご神体「沖ノ島」を守り続ける宗像大社の取り組みがあります。
プロセスは違えども、「後世に残すべきものを守る」という根や幹に違いはないでしょう。
「現在を生きる私たちと歴史的な日本の出会い」を目指す世界遺産劇場というイベントを通して、導かれるように宗像大社 辺津宮を訪れ、その“時”と“場”でしか感じることができない“出会い”に感謝しました。
ステージの背後には、宗像大社 辺津宮が広がり、遠くに御神体「沖ノ島」を感じます。
会場は、今まで経験のないような神聖な空気感に包まれ、まさに時空が消えているような感覚になります。
時間の隔たりも消え、物理的な空間も意味を失くし、“故人”とつながるような特別な空間が生みだされた思いがありました。
月夜に溶け込む舞台を見守る“故人”の温かな眼差しを近くに感じ、海老蔵さんの粋な舞が、山笠の魂とともに、宗像大社に奉納されました。
夜空に突き抜けた“成田屋!”。。。あの掛け声(大向こう)は、どこから聴こえてきたのでしょうか。
宗像大社へようこそ http://www.munakata-taisha.or.jp/
株式会社エス・エー・ピー(SAP) https://www.sap-co.jp/
※ 当記事はTheNewsへ提供した記事を著者が再編集し書き下ろしたものです。